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”FUKAGAWA" 浄心寺 Traditional Cache

This cache has been archived.

ShinyOrbital: Archived.

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Hidden : 10/23/2013
Difficulty:
2.5 out of 5
Terrain:
1.5 out of 5

Size: Size:   micro (micro)

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Geocache Description:

I established the cache near the approach to a shrine of the Joshin temple. Is a temple; look for it calmly.


浄心寺
明暦の少し前に、日義上人は千葉の小西檀林の夏安居を利用して江戸に出て、深川の草庵で読経三昧に明け暮れていた。そこを小堀遠江守宗甫の室お秀の方(通称三沢局)が通りかかり、日義上人に熱心に師事するようになった。のちに三沢局は春日局に付き添って四代将軍となる家綱公(幼名大樹)の乳母を勤めた。三沢局は病にかかり、明暦元年(1655)に乳母を辞し、日義上人に新寺建立を遺命し、明暦二年に亡くなる。上人は局に浄心院妙秀日求大姉の法号を贈り、自分は通遠院日義と名乗る。上人は三沢局の遺命を奉じて小西檀林を辞して、深川の地に永住を決意するも病気となり、学友日通上人を小西から呼び新寺建立を委託して亡くなる。日通上人はお秀の方を開基と定め、日義上人を開山とし自分は第二代と名乗る。家綱は乳母の志に感銘して、浄心寺の建立を許可し、一万畝の寺額・奉一〇〇石・経費として五万両を寛文二年(1662)に寄進する。また、大奥入りしたとき、大奥女中の意志和合を祈って伊勢外宮の豊受大明神を奉祀して、和合稲荷とし毎朝夕にお題目を唱えていた三沢局のために家綱は、浄心寺境内に和合稲荷を建てたという(「法苑山浄心寺縁起」)。
浄心寺は身延山の末寺となり、宝暦三年(1753)、身延山の祖師像・七両天女像の出開帳が浄心寺でおこなわれ、その後も数度あり、身延山の弘通所と呼ばれた。
壮大な境内も、震災・戦災で焼失する。ただ、祖師堂の内陣は明治四〇年に完成した鉄筋コンクリート造りなので、昔の姿を伝えている。なお、浄心寺の住職は世襲ではなく法縁である三百余の寺の住職から選ばれるという.

キャッシュは浄心寺参道近くに設置しました。 お寺です、静かにお探しください。

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